ジッダ案内(第1回):永久の歴史都市ジッダ ― 紀元前にまで遡る文明の痕跡 ―
令和3年9月28日
古代ローマ時代以前に遡る古い歴史
今日のジッダを含むアラビア半島の西海岸、つまり紅海沿岸地方は、古来ヒジャーズと呼ばれています。ヒジャーズとは、アラビア語で元来「分け隔てるもの」という意味で、この地方を南北に走る山脈を呼んだ言葉であったのが、その両側を指す地方の名となりました。この山脈は火山脈で、溶岩に覆われた荒野が続く一帯です。
この地域の歴史は古く、古くから人が居住して農耕を営み、南のイエメンで産出される乳香や香料などをエジプトや地中海沿岸に運ぶための陸路や海路に組み込まれて交易が行われたいたとされています。古代ローマによるイエメン遠征に際し、ヒジャーズの一部はローマ帝国のアラビア属州に組み込まれていたとも考えられているようです。
この地域の歴史は古く、古くから人が居住して農耕を営み、南のイエメンで産出される乳香や香料などをエジプトや地中海沿岸に運ぶための陸路や海路に組み込まれて交易が行われたいたとされています。古代ローマによるイエメン遠征に際し、ヒジャーズの一部はローマ帝国のアラビア属州に組み込まれていたとも考えられているようです。
ジッダという名の由来は「おばあさん」?
ジッダという名の由来には諸説がありますが、一説によれば、アラビア語で「おばあさん」を意味するjaddah(ジャッダ)から転じたものとされ、その背景としては、ここジッダにハウアー(人祖アダムの妻とされるイブ)のものとされる墓があるという神話的伝承が挙げられるようです。
他方、考古学的には、約3000年前には漁民の一団がこの地に居を構えたことが確認されており、紀元前4世紀にはかのアレクサンダー大王もここにその足跡をとどめたとされているほか、約2500年前にはアラビア半島の北部又は南部起源とされる有名な部族クダアが定住します。
他方、考古学的には、約3000年前には漁民の一団がこの地に居を構えたことが確認されており、紀元前4世紀にはかのアレクサンダー大王もここにその足跡をとどめたとされているほか、約2500年前にはアラビア半島の北部又は南部起源とされる有名な部族クダアが定住します。
イスラム時代の到来
確実なことが分かるようになるのは、西暦7世紀のイスラム時代の到来以降。646年、第3代正統カリフのオスマーンがジッダをマッカの公的な外港として以来開発が進み、エジプト、インドからの穀物や奢侈品の荷揚げ港として発展します。
10世紀になり、アッバース朝の力が衰えると、ペルシャ湾航路に代わって地中海に抜ける紅海航路の重要性が増したことにより、ジッダはエジプトを中継地としてヨーロッパからもたらされる貴金属、毛織物、インド方面からもたらされる香料、染料、米、砂糖、茶、穀物、宝石が取引される港として発展します。
その後、ジッダの支配は、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝といった歴代のイスラム王朝に委ねられました。マムルーク朝の末期には、ポルトガルの襲撃から守るため、ジッダは周囲を壁で囲まれ要塞化されています。その後、1517年にマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国によって更に城壁や塔の補強が行われました。そして更に時は過ぎ、20世紀の初頭の1925年、ジッダはアブドルアジーズ初代国王によってサウジアラビアの支配下に入り、今日に至ります。
10世紀になり、アッバース朝の力が衰えると、ペルシャ湾航路に代わって地中海に抜ける紅海航路の重要性が増したことにより、ジッダはエジプトを中継地としてヨーロッパからもたらされる貴金属、毛織物、インド方面からもたらされる香料、染料、米、砂糖、茶、穀物、宝石が取引される港として発展します。
その後、ジッダの支配は、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝といった歴代のイスラム王朝に委ねられました。マムルーク朝の末期には、ポルトガルの襲撃から守るため、ジッダは周囲を壁で囲まれ要塞化されています。その後、1517年にマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国によって更に城壁や塔の補強が行われました。そして更に時は過ぎ、20世紀の初頭の1925年、ジッダはアブドルアジーズ初代国王によってサウジアラビアの支配下に入り、今日に至ります。
現代も未来も、巡礼の玄関口として
時代は変わっても、ジッダはイスラムの聖地マッカ(メッカ)への巡礼の玄関口として、世界各地からの巡礼者を受け入れてきました。ムスリム(イスラム教徒)にとってマッカ巡礼は、一生に一度は果たすべき大切な義務の1つ。年に一度、イスラム暦の12月に行われるハッジ(大巡礼)のほか、財力や体力の許す限り随時行うオムラ(小巡礼)もあるため、一年を通して巡礼者が絶えることはありません。
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、2020年と2021年の海外からの大巡礼の受入れは中止されましたが、主に船を使って巡礼を行っていた時代から飛行機が主たる移動手段となった現代においても、マッカの玄関口としてのジッダの重要性が失われることはないでしょう。
ジッダ歴史地区は、今や、サウジアラビアにある世界遺産の一つ。多彩な文化や建築技術、紅海特有の建物が多数残るジッダの歴史地区は、2014年にユネスコによって世界文化遺産として登録されました。木製の飾り窓、色や形、装飾、外壁、どれをとっても特徴あるユニークな建築様式が丁寧に保存されており、ここを訪れる者は誰しも、巡礼の玄関口として栄えたジッダの歴史の奥深さに圧倒されます。
2021年9月には、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子によって、この歴史地区を保存・修復しつつ同地区を更に魅力ある観光とビジネスの自然豊かなスポットとするための復興計画(Jeddah Historical Area Revival Project)が発表されています。こうして、ジッダ歴史地区は、マッカへの玄関口、そしてサウジアラビア国民の誇る文化遺産として、益々重要な役割を担っていくことでしょう。
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、2020年と2021年の海外からの大巡礼の受入れは中止されましたが、主に船を使って巡礼を行っていた時代から飛行機が主たる移動手段となった現代においても、マッカの玄関口としてのジッダの重要性が失われることはないでしょう。
ジッダ歴史地区は、今や、サウジアラビアにある世界遺産の一つ。多彩な文化や建築技術、紅海特有の建物が多数残るジッダの歴史地区は、2014年にユネスコによって世界文化遺産として登録されました。木製の飾り窓、色や形、装飾、外壁、どれをとっても特徴あるユニークな建築様式が丁寧に保存されており、ここを訪れる者は誰しも、巡礼の玄関口として栄えたジッダの歴史の奥深さに圧倒されます。
2021年9月には、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子によって、この歴史地区を保存・修復しつつ同地区を更に魅力ある観光とビジネスの自然豊かなスポットとするための復興計画(Jeddah Historical Area Revival Project)が発表されています。こうして、ジッダ歴史地区は、マッカへの玄関口、そしてサウジアラビア国民の誇る文化遺産として、益々重要な役割を担っていくことでしょう。


世界遺産に登録されたジッダ歴史地区(写真:サウジ国営通信)
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